微睡みに漂う言葉

思ったり、考えたり、気付いたり、そんなことを綴っていきます。

昨日星を探した言い訳

 

 

今回は趣向を変えて、本の紹介を。

僕がここ数年読んだ中で一番好きな小説です。

 

 

[河野 裕]の昨日星を探した言い訳【電子特典付き】 (角川書店単行本)

(2020年8月24日 KADOKAWA

https://www.amazon.co.jp/dp/B08F9S7D68/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1

 

 

昨日星を探した言い訳

 

もともと僕は著者の河野裕さんのファンだ。

ラノベやアニメ好きだったら知ってる方もいるかもしれないが、「サクラダリセット」の著者でもある。

 

あとは昨年公開された「いなくなれ、群青」という横浜流星・飯豊まりえ主演の実写映画の原作や、今日新刊が出た「さよならの言い方なんて知らない。」も河野さんの作品だ。

 

どれもあらすじだけでかなーーりワクワクするので是非読んでほしいが、今回は涙を呑んで河野さんの『昨日星を探した言い訳』にフォーカスしたい。

 

 

内容に触れる前にまず、この小説が著者にとってどういう存在なのか、インタビュー記事があったのでそちらを貼っておく。

 

――私にとってベースとなる小説を書こうと思った 『昨日星を探した言い訳』発売直前! 河野裕書面インタビュー | カドブン


全文読んでいただきたいところだが、一部抜粋すると…

河野: 小説を書いて生活するようになってから10年ほど経ったので、そろそろ私にとってベース(基盤)となる小説を書こう、と考えて書き始めました。

 

心情としては、以前は「小説とは著者のエゴで書くもので、そのエゴを失うくらいならある程度の伝わりづらさは仕方ない」という考えだったのですが、最近になって「あれ? 丁寧に伝えようと努力しても意外とエゴは消えないな」と気づいた、という感じです。

 これまで長いあいだ、私の基盤はデビュー作だったのですが、私の意識の中ではそれを更新できたように思います。

 

質問7 本作をどんな読者に読んでもらいたいですか?

河野:小説というのは、読もうとした全員に開かれているものだと思いますが、強いて言うなら「社会的な正義や倫理に興味がある人」と、「社会的な正義や倫理を語っている誰かの言葉に違和感を覚えたことがある人」です。

 という感じで、河野さんが自身の執筆活動の集大成として書ききった特別な思い入れのある作品であることが分かる。

 

僕は、発売前にこのインタビューを読んでめちゃくちゃワクワクしたのを覚えてる。

だって、好きな作家が本気を出した!ってわざわざ言うほどの内容だ。

そんなの気にならないわけがない。

 

しかもあらすじに目を通すと、これまた僕の興味をくすぐる絶妙な設定なのだ。

 

自分の声質へのコンプレックスから寡黙になった坂口孝文は、全寮制の中高一貫校・制道院学園に進学した。中等部2年への進級の際、生まれつき緑色の目を持ち、映画監督の清寺時生を養父にもつ茅森良子が転入してくる。目の色による差別が、表向きにはなくなったこの国で、茅森は総理大臣になり真の平等な社会を創ることを目標にしていた。第一歩として、政財界に人材を輩出する名門・制道院で、生徒会長になることを目指す茅森と坂口は同じ図書委員になる。二人は一日かけて三十キロを歩く学校の伝統行事〈拝望会〉の改革と、坂口が運営する秘密地下組織〈清掃員〉の活動を通じて協力関係を深め、互いに惹かれ合っていく。拝望会当日、坂口は茅森から秘密を打ち明けられる。茅森が制道院に転入して図書委員になったのは、昔一度だけ目にした、養父・清寺時生の幻の脚本「イルカの唄」を探すためだった――。

 

言いたいことは分かる。僕も初めてこのあらすじを読んだときに

「いや、情報量よ」

とめちゃくちゃに思った。

 

でも、改めて読み直すと、非常に面白い要素が詰まっていることが分かる。

 

 

例えば、

・生まれつき緑色の目をもつ人がいる

というのはこの話の特徴だ。

 

読んでみたら分かることなので言ってしまうが、この小説には「なぜ、緑色の目の人が存在するのか」ということに一切触れていない。

ただ、クラスに数人程度には緑色の目の人がいるし、歴史を振り返ると緑色の目の人は昔虐げられていたため今も差別問題が(表面上解決しているが)根底に残っているという。

 

それがどうしたの?と思うかもしれない。

しかし、それが微妙な感情として表出するのがこの小説なのだ。

 

例えば、この世界にはまだ緑色の目をした総理大臣はいない。

緑色の目の人の人権を守ろうというNPOのような活動が世の中にある。

当の緑色の目の人たちは、普段差別を受けている意識はないが、ふとした折に意識せざるをえない(成績が同じの黒色の目の人より、緑色の目の人が学校から悪い境遇を受ける等)。

 

この、平等とは言いつつ平等になり切れていない世界は、現代の日本が抱える様々な問題を彷彿とさせる。

 

ただ、この小説はそれらの正義を押し付けることはしない。

その余白のような部分もまたこの本の数多ある魅力だと思っている。

 

 

あと、僕のたまらなく好きな設定としてあるのが主人公たちの通う学校の「拝望会」の存在だ。

これは、昼頃から8時間ほどかけ30kmを歩き、最後に山の上の展望台に向かうという校内のイベントだ。

 

えーそんなの嫌だよと思うかもしれないから、本文の一部を抜粋する。

 

でもこの行事は、意外に生徒からは好かれている。

制道院の新入生であれば、先輩から必ず聞かされる言葉があるのだ。

ーーー拝望会で食うカップ麺は、世界でいちばん美味いんだぜ。

(中略)

嘘をついているわけでも、強がっているわけでもなくて、拝望会とはそういうものなのだ。世界でいちばん美味いカップ麺を言い訳に、ひたすら無意味な30キロを歩く会だ。

 p72、73

 

そういうものなのだ。

本当はちょっとめんどくさいが、まぁしょうがないなぁと自分に言い訳をして、友人と愚痴なんか言ったりしあいながら、終わったあとは確かな思い出として残る、そんな行事なのだ。

 

もし、この良さが分からないよーという方は、恩田陸さんの夜のピクニックという小説を読むか、早稲田大学の100キロハイクに参加してほしい。

歩くって、ドラマなんだぜ。そんなことが分かるかと思う。

 

実はこの拝望会ができた起源には緑色の目の人が虐げられた話が関連していたりするため、この時期の黒色の目の人と緑色の目の人の関係は少しだけぎこちなくなったり、主人公の一番の友人は足が不自由で車いすに乗っていたりする。

そこから生じる葛藤もまたなんというかリアルなのだ。

 

 

だめだ、この調子でこの本の魅力を語っていたら全く何千字あっても足りない。

もっともっと書きなぐりたいのを我慢して、この本の魅力をあと2つ伝えて終わりにしたい。

 

 

1つ目はこの本を読んで考える正義や倫理だ。

残念ながら答えは、ない。

ただ、理知的な主人公たちの会話を盗み見ていると、あれ?自分ならどう考えるだろうと思う。

人によって大事にしているものが違うから何かを決めることの難しさを痛感する。

前提が違うんじゃ分かりあうことなんてできない。

でも話すしかない。少なくともその努力には何か意味が生まれるはずだ。

ん?だけど、話す行為そのものに意味を見出してるのって本質的といえるのか。

そんな風にグルングルン思ったりする。

 

 

2つ目は、河野裕さんの表現力だ。考えさせられる。

地の文をここまでじっくり読みたくなる小説なんてなかなかない。

いくつか紹介してしまおう。

 

本心じゃ、運命なんてものは信じていない。でもある種の偶然に運命と名づける価値は知っている。 p276

 

どうせ、思いもしない形で後悔は生まれるんだろう。なら後悔の総量を減らすんじゃなくて、それを受け入れられる方を選びたかった。悲しい、苦しい、失敗した。でも。でも、なんだろう?わからないけれど、とにかく最後に、後悔に対して反論できる方を。 p284

 

僕は祖母を嫌う代わりに、あの人とは決して交わらないところを目指した。あの人が大事だというものの価値を否定して、別のところで大切なものをみつけようとしてきた。反対に進む、という意味で、あの人は僕の指針であり続けた。 p320

 

小説の醍醐味は、自分では言葉にできない感情を文字で的確に表されたときの感動だと思っている。

それがこの小説には、惜しみなく詰まっているのだ。

 

自分を知るために、本を読む。

そんな理由で手に取る小説があったっていい。

そして僕にとってはその一冊がこの、昨日星を探した言い訳だった。

 

 

 

この本を手に取った方がいたら、その方の琴線に何かが触れますように。

 

 

感想はいつでも待っているので、読んだ方はぜひ連絡ください。