微睡みに漂う言葉

思ったり、考えたり、気付いたり、そんなことを綴っていきます。

手相に憧れた日の話

 

大学3年の冬、自分に何もないなと思った。

 

予定に追われる濃密で楽しい日々がひと段落して。

 

でも、自分には何もないよなと。

自分がいることの価値って何だろうと。

 

深夜になりベッドに寝そべりながら、そんなことをふと思った。

 

こういうモラトリアムと中二病の拗らせみたい悩みが時折突発的に訪れる。

いつもは寝るか、別のことで気を紛らわせるんだけど、この日は何かどうかしなくてはならないという使命感があった。

 

どうしてこんなことを思ったのか自問自答して深堀りしてみる。

すると、どうやら僕は趣味も特技も人並みであることへのコンプレックスというか、「○○さんといったらこれ!」みたいな特徴がないことへの焦りを感じているみたいだった。

 

モチベ高いマンだったこの日、ネットサーフィンで何か自分が興じれそうな趣味を探してみることにした。

すると、”手品”という言葉に目を引かれた。

『誰でもできるトランプテクニック』みたいなそんな記事だったと思う。

 

身体を起こし、部屋の電気をつけ、棚からしばらく使ってなかったトランプを取り出す。

ベッドの上で安坐を組み、自分にも出来る手品を試す。

2,3個やってみたところで、これはいけるかもしれないと思った。

自分は口も回る方だし手品を向いているかもしれない、そんなことを思って今度はコインを使ったものに挑戦してみる。

 

そして、これがびっくりするほどできなかった。

 

コインの手品は初心者には難しく、練習する必要があると書いてあったが、もうこれは全然できる道のりが見えなかった。

 

あらあらと素直に諦めて、電気を消し、ベッドに転がる。

 

そういえば昔、基礎実験の授業でペアになった人がマジックサークルに入っていた。

そのほかにも(なぜか)割と手品に挑戦する友達が僕の周りには多かった。

 

いまさら手品を始めたってその人たちに勝てるわけでもないし、自分自身がタネを知ることで手品を純粋に楽しめなくのも嫌だなぁと思って手を引くことにした。

 

 

でも、これで自分が何に興味があるのかちょっと分かった気がした。

 

①そもそもできる人が少ない

②大がかりな用意や準備なくできる

③エンターテイメントとして成立している

 

こんなもの手品以外にあるかなぁと考えたとことで、すっと思いついたのが”手相”だった。

いや、正確に言うと、Tのことを思い出した。

 

Tは、僕が当時所属していた教育系NPO団体カタリバで出来た手相のできる友人だ。東大の院生で、僕の人生の中でもあまり出会ったことがない、常識人っぽいのにぶっ飛んでいるヤバいやつだ。

 

「その分野を知るには最高級と一番下を体験するのが一番手っ取り早い」と言って、10万近い吉原の高級ソープに行ったかと思えば、3000円くらいで出来るらしいおばあさんが個人で経営している危ない風俗店に行く。

 

彼女と付き合っているなかで、毎月何かしらのテーマを決める。

ある月は『キス強化月間』なるものを策定し、世界中の論文を読み漁ったうえ、自身らもありとあらゆる方法を実践。その後、趣味で論文にまとめる。

(当時医療系の学校で実習中だったTの彼女は、キス病という連日高熱が続いて下がらないという結構笑えない病気にかかり留年が決まったらしい)

 

そんなことをする人だ。

Tとは、カタリバの企画でともに副代表を務めたことがあった。

含蓄のある言葉をよく投げかけてきてはドキッとさせられていた。

 

例えば…

「相手に思いを伝えようとしても、その過程で必ず総量は減ってしまう。だから相手に自身の100%の気持ちを届けたいなら、自分は120%の気持ちで話さないといけない」 

というセリフを自分の信念のもとにしっかりと言える人なのだ。

(これを聞いたときから、僕はTのファンになった)

 

そんな彼の生きざまが好きで僕は定期的にTと話す。

いつ会ってもその前と違うことをやっていてビックリするし、挑戦心を分けてもらっている。

 

僕はTに手相を見てもらったことがなかったのだが、一度だけ彼がほかの人の手相を見ている現場に一緒にいたことがあった。

 

都内の高校生5人とグループで話すというカタリバの企画。

どんな雰囲気のアイスブレイクが良いかについて話しているときに、Tが普段は俺は手相で盛り上がるよと実践してくれた。

 

僕たちは生徒役になりきり、Tがリーダーとして場を回した。

「いや実は俺、手相見れるんだよね。君の見てもいい?」と話し、隣にいた人の手を見ると「いや、これはすごいわ、才能の塊だな君は」と続けた。

その後、Tはアイスをブレイクするどころか粉々にする勢いで場を盛り上げた。

 

手相の知識もそうだけど、それを相手に伝える話術も大事なんだなと感じた。

やっぱTってすごいなと思った。

 

 

そんなTを思い出して手相のことを考えているうちに、あ、これはめちゃくちゃいいかもしれないと思うようになった。

 

1つ目の理由としては、占いというものの面白さだ。

 

当時僕は、認知科学系の研究室に在籍していて、ヒトの研究をしていた。

運動データを統計的に解析して、結果から考察する。

そんな科学的で大変な手間をかけてヒトを知ろうとしていた。

 

一方で占いは、ただ手を見たり、生まれた日が分かるだけで、あなたのこと分かっちゃいますよ、ってなんて無責任なんだと思った。

でも、無責任なくせに、それで多くの人の行動が変わるのだからすごい。

 

”今日はふたご座が1位だったから、勇気をもって好きな人に話しかけよう”

 

そんな風にでさえ人の背中を押せてしまう占いのすごさを内側から見てみたくなった。

 

 

 

2つ目の理由は単純に不純な動機で。

あのー…。手が好きなんです。

手フェチとも言います。

 

人が掴んできたもの、手放してきたもの、すべての歴史が手には詰まっている。

手に触れるというのは、その人の人生の一端を見るということになるんだなぁと。

だから、手が好きなのです。

 

そんなことを思ったりして、手相を始める決心をした。

確か翌日には、ネットで調べて一番よさげな手相本を購入した。

頭が狂っているときの行動力は自分の好きなところでもある。

 

 

そこから紆余曲折あり、24歳の秋に、日本手相能力検定1級を取った。プチ自慢です。

 

実際に勉強してみて、多くの人の手を見てきて、どう思うようになったか。

また、書きます。