広島を歩く〜①プロローグ
はじめに
以前テレビ番組でやっていた内容で印象に残っているのは「アドバイスはベクトルのようなものだ」という言葉だ。
いろんな人のいろんな言葉に実は人は影響を受けていて、ベクトル合成のように人生の方向を変えられている。
それは線を長くすればするほど当初から逸れているのが分かるもので、結局、自身が気付いているいないはともかく自分の道は本当に様々な要因で簡単に変わるのだと思う。
それは僕にとっては大きいもので括ると例えば一冊の本との出会いや、心の病や、音楽による感動や、振られたことへの動揺やらで、沢山ある。
そんな分かりやすいものがある一方で、当時は気付いていないだけで友人の言葉や生き様を通して潜在的に影響を受けていたうえで自分の選択というのは決められていたのだなと振り返った時に思ったりすることも非常に多い。
このブログで僕が書こうとしているのはできるだけ素直な僕の心の動きだ。
振る舞いが悪いことは自覚しているが僕は表面的な人に見えやすいらしい。
だからこそ、こんなことを考えているんだよというのを他人に覗いてもらって、ふーんそんなこと考えてるんだこの人は、とでも思ってもらえたらいい。
それを機に、じゃあオススメしていた本を読むかとか、この場所行ってみようかとかこういうときアイツはこんなことかんがえそうだなとか回りまわってその人に何かしらの影響を与えるのではないかと僕は思っている。
あわよくば自分も誰かの良い道にとっての一助になれていたら良い、そんな風に思う。
あと、なんていったって人の思考の痕跡を見るのが僕は好きなのだ。
僕の思考の痕跡に需要があるかは置いておくとして、まずは自分がやられて嬉しい(面白い?)ことをしてみようというのに意義がある。
できるだけ、大衆が見ているからと取り繕った言葉はつかわないことを約束する。
それは見る人にとって不愉快な気持ちを抱かせる可能性も孕むけど、読むかどうかは自己判断にしていただけると助かる。
また、これは完ぺきに僕の自己満足なのだが、できるだけ誰かを思い浮かべた時にその人のことを記したい。理由は人は人に影響を受けるものだと思うからだ。
自分にとって影響を受けた人をこの時どう思っていたどう思い浮かべたのか記すのは、自分なりに意味があると判断した。
「〇〇(イニシャル)先輩/同期/後輩」くらいに濁すが、いつかこれを読んだ人も文章内に登場するかもしれない。申し入れがあれば素直に消す。
このブログのタイトルは
「微睡みに漂う言葉」とした。
微睡みは僕にとって幸せな瞬間の一つだ。
けど、このときの夢から引き続き抱いていた感情とか、湧き上がる思いは
覚醒するにつれて忘れられていってしまう。
いつももどかしいなと思う。
ただ、それは微睡みの時だけじゃない。普段の生活の中でも同じだ。
このときはこんなことを考えていたみたいなのを人はすぐ忘れてしまう。
(それだけにとどまらず後から改変すらしてしまう)
僕は日常に溢れた想いをできるだけ真摯に残したい。
そんな思いも込めてこのタイトルにした。
「言葉は人の心に火をつける、文字は人の心を温かくする」
そう思っている。
僕の綴る思いが意図せず誰かの心を温めていることを切に願う。
2020/11/18