微睡みに漂う言葉

思ったり、考えたり、気付いたり、そんなことを綴っていきます。

研究とは何か ~K研究員との思い出~

 

これから不定期に、大学院で過ごした非常にかけがえのない時間を振り返ろうと思う。

 

M1の4月になる前からおよそ1年半の時間をかけて僕は博士進学をするか悩んでいた。

そんな僕が今は大学の研究とは全く関係ない(それどころか理系でもない)職場で働いている。

 

後悔はないが未練はある。

 

それだけ素晴らしい時間を院生時代に過ごしてしまったからだ。

何よりもK研究員と会えたのが僕の研究生活、

ひいては人生において、なによりも幸せなことだった。

 

K研究員は僕より10歳上の非常に優秀な研究者だ。

彼は面倒見がよく、誠実で、スパルタで、ユーモアにあふれていた。

澄んだ世界で静謐に研究と向き合うK研究員は格好良くて、

いつかその世界に自分も行けるのだろうかと憧れていた。

 

K研究員との日々で思い出すのは、論文発表の時間だ。

 

まだ学部4年生の5月くらいから、週に1,2本論文を読んだ論文をまとめて

K研究員の前で発表した。

 

K研究員は、たどたどしい僕の発表を聞いて、

いつも僕よりも深く論文の内容を理解した。

 

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(1つの論文でだいたい5,6枚のスライドにまとめて解説した)

 

K研究員がよく仰っていたのは、

「この研究をあたかも自分がやったかのように私に発表しなさい」

ということだった。

 

例えば、実験方法を説明しているときも

「なぜ、○○を調べたいのに、この条件は変えなかったのか」などと聞かれる。

そこで、僕は「自分がやった実験じゃないので知りません」とは言わず、

「○○の理由で実験1では調べていません。しかし関連実験としておっしゃった条件を変更させたものを実験2では調べています」などと反論したりしなければならない。

 

いま考えれば、あの時間があったからこそ

論文を読むのではなく、論文を理解する努力を怠らなくて済んだのだと思う。

僕はK研究員を心から尊敬していて、失望されたくないから努力を続けた。

そういった頑張り方もありなのだとこのとき学んだ。

 

 

いつも論文発表するとK研究員は、たくさんの指摘をした。

「このデータは統計的に有意だが効果は小さいし再現性は低いだろう」とか、

「この実験環境では外部要因が多すぎてこの結論は断定しきれない」など

当時の僕は、同じものを見ているはずなのに見える世界がK研究員と僕で全く違うことに驚いた。

 

いつだったか、K研究員は僕に対して

「本当に良い論文は実験方法を見ただけで結果を見なくても感動する」

と言っていた。

 

学部生だった僕は、まず論文を読んで感動という言葉の意味が分からなかったし、いや方法が良くても結果を見ないと分からないだろうと思っていた。

 

しかし月日が経ったM2のある日、論文を読んで震え上がった。

それは1年くらい僕が、関心はあったけど実験に落とし込むには諸要因が多すぎてどうしようか悩み続けていた条件に関する実験の論文だった。

 

Introductionを読んだ。そうそうこれこれ、気になってたんだと思った。

でもこっから実験に落とし込むのは難しいよなと考えたところでのmethod。

 

こんな、結果に差が出ても出なくても意義があり、かつその要因が一義的に定まる優雅でシンプルな実験統制があるのかと驚いた。

 

まじかよ、と興奮した。

そうか!!こうすればよかったのか!!!ととても悔しい気持ちになった。

でも、さらにこの部分は詳しく調べる必要があるなと冷静になった。

もっとこの世界のことを知りたいと思った。

 

たった一編の論文に心揺さぶられるなんて、そのときまで考えたことは無かった。

良い論文を読むと、うれしくなる。

K研究員の

「本当に良い論文は実験方法を見ただけで結果を見なくても感動する」

という言葉の真意を少しだけでも汲めたような気がした。

 

 

 

K研究員の言葉で救われたものもある。

 

たしか学部4年の夏とかで、優秀な研究員に囲まれる生活の中、

自分はここまで実直に研究と向き合えないと弱気になった時があった。

 

なんで周りの研究者はこんな真摯に真理を追究しているのだろう。

それはプライベートや多くの代償を払ってまで、本当に自分がやらないといけないものなのか。

その研究にどれだけ社会的意義を見出しているのだろう。

 

「こんな一般の人にとって何の意味も持たないような研究をすることへの意味を僕は見いだせないんです…」と、怒られるのではないかと少しビクビクしながらK研究員に弱音を漏らした。

 

そのときK研究員がゆっくりと紡いだ言葉は、彼が研究に身を捧げた特別な人間だと信じていた僕の意表を突くものだった。

「正直なことを言うと、私も研究そのものに意味があると信じて頑張っているとか、そんな高尚なものじゃないんだ」

「科学っていうのは本当にすごい人が、何年か何十年かに一回、大きく前進させてくれる時があるけど、僕たちみたいな『じゃない人』はそういう天才のための整備した歩きやすい道を作っているんじゃないかと思うときがある」

「ただ、これは面白いことなんだ。研究っていうのは、世界中の天才たちとの知恵比べみたいなもので、ゲームのようなものなんだ。こういうもの考えて証明したぞとかを、顔も知らない人と時には競い、時には協力する。また、自分の成果を使って誰かが新たな小さな一歩を踏み出してくれている。それが楽しいから続けている」

 

確かそんな感じのことを言った。

 

「研究は世界中の天才とのゲーム」

そんな言葉を研究熱心で実直なK研究員が使うとは思わなくてびっくりした。

 

けど、この言葉は確実に僕を救った。

そうか、もっと「今、楽しい」という感情に目を向けてもいいんだと思えた。

 

いまでも、僕は世の中のありとあらゆる困難な局面と向かい合ったとき

「これはゲームだ」と考えるようにしている。

すると途端に、気持ちがすっと軽くなって、わくわくが始まる。

 

あの、何気なくかけがえのない日のK研究員の言葉は、

僕の心を生涯支え続けると思う。